タイ国修業

            2024年初日の出ではないけど・・美しい朝日

 

  2024年の年が始まり、近くの海で初日の出と富士山を拝み帰ってきてTVを見ていたら、突然の揺れ!日本海側石川県を中心とした大地震だった。津波も発生して今日現在も避難者が大勢いるし、亡くなった方も大勢いる。加えて、羽田空港では飛行機の衝突事故発生。年明けからの災害に心が痛む。

 

  さて、大学を卒業したはいいが就職活動は何もしていなかった。以前から気になっていたことの一つに、キックボクシングの基は何なのだろうと言うことがあり。調べたところ、タイ国の国技ムエタイと言うものであることが分かった。それなら、本場タイ国に行ってムエタイを習うのが技術を覚えるのに都合がよいのではないか・・と言うことで卒業後すぐに一人タイ国に旅立った。何しろ、海外に行くのは初めて、英語は良くわからず・・大学卒なのに・・、タイ語などは聞いたこともない。しかも、当時、タイ国入国するにはコレラの予防接種が必要だった時代。それでも、新宿の紀伊国屋で見つけたタイ語辞典を片手に出発した・・今思うと、こんな状態で良く行ったものだ!・・途中台湾で乗り継いでようやくドムアン空港に到着。あたりは暗くなっていた。飛行機から出た時の驚きは今でも忘れない。ムワ~とした暑さと何とも言えない空気の匂い。排気ガスパクチーと炭を焼いた匂い・・?とにかく衝撃だった。迎えに来ていたのは、その後のムエタイの先生になるサマンソーアディソン。あのキックにの鬼、沢村忠が2戦目に対戦し病院送りにされた相手だ。色黒で彫が深く、イケメン。ムスリムのタイ人。それから、帰国するまでずっと面倒を見た貰った。滞在場所は、スクンビット通りのソイ23。有名なタイシルクの会社チナワトラの社長がオーナーのジムだった。



学校卒業

 暑い暑いと言っていた夏も終わり、ようやく涼しい秋になるかと思いきや、暑さが続いて・・と、思っていたらいつの間にか冬になっていた。今朝も冷えたな~日本海側は大雪で、この冬一番の寒気到来。朝のトレーニングもたいへんだ!

 

  デビュー戦から何戦目かして大きな試合のチャンスが来た。減量も徐々に慣れてきたし、練習も順調だし。この時は、空手の先輩が公衆浴場をやっていて、そこを手伝いながら裏庭に個人道場を建ててトレーニングをしていた時期だった。学校に通いながら良く練習した。多分この時が一番身体をいじめていた時期だったと思う。だから、かなりの自信を持って試合に臨んだ。が、KOで負けてしまった・・・。相手は、のちに全日本ライト級チャンピオンになった、大貫忍選手。試合後は一週間くらいまともに歩くことができなかった。その後再選を希望したけど叶うことはなかった。そんなこんなを繰り返しているうちに学校を卒業した。今思うとこの四年間何を勉強したのだろう・・?それでも充実はしていたと思う。ゼミ合宿も何度か計画、実行し。授業はとりあえず出席し、留年することなく卒業した。そして、卒業してからまた新たな挑戦が始まった。

 

選手生活のはじまり

 

 

今年は11月に入っても夏日があるくら、ホントに暑い年だったけどようやく下の公園の木も紅葉がしてきた。しかし秋が来たというよりいきなり冬到来の感じがする。どうなっているんだろう・・・。

     遅い紅葉

 

ジムで練習を始めて3か月くらいして試合が組まれた。相手の名前は憶えていない。たしか2戦か3戦してる選手だったと思うけど・・。計量は当日の8時間前、現在は前日計量だけど、僕の時代は試合の8時間前に計量が行われた。これは特にボクシングの試合で事故が多発した為。減量は僕でも10㎏位するし、リミット10gでもオーバーしたら試合できないから大変だ。計量が終わってリングに上がるときには、2~3㎏位増加しているのは当たり前だから、体にいいわけないよね。もちろん、試合そのものも大変だけど、この減量ってヤツが本当に大変で、ありとあらゆる感覚が鋭くなってくる。特に最後のほうになってくると水の匂いまで感じるし、寝てても体が宙に浮いてるような感じになってくる。修行僧が断食をして修業するのと同じなんだろうな。これは今になって思うとイイ経験でした。デビュー戦は緊張してよく覚えていないけど、最後は相手をコーナーに詰めて膝蹴りでKOした。膝蹴りなんてこの時は練習したことなかったのに・・。そんなこんなで僕の選手生活が始まった。

 

選手生活のはじまり

 

 

今年は11月に入っても夏日があるくら、ホントに暑い年だったけどようやく下の公園の木も紅葉がしてきた。しかし秋が来たというよりいきなり冬到来の感じがする。どうなっているんだろう・・・。

     遅い紅葉

 

ジムで練習を始めて3か月くらいして試合が組まれた。相手の名前は憶えていない。たしか2戦か3戦してる選手だったと思うけど・・。計量は当日の8時間前、現在は前日計量だけど、僕の時代は試合の8時間前に計量が行われた。これは特にボクシングの試合で事故が多発した為。減量は僕でも10㎏位するし、リミット10gでもオーバーしたら試合できないから大変だ。計量が終わってリングに上がるときには、2~3㎏位増加しているのは当たり前だから、体にいいわけないよね。もちろん、試合そのものも大変だけど、この減量ってヤツが本当に大変で、ありとあらゆる感覚が鋭くなってくる。特に最後のほうになってくると水の匂いまで感じるし、寝てても体が宙に浮いてるような感じになってくる。修行僧が断食をして修業するのと同じなんだろうな。これは今になって思うとイイ経験でした。デビュー戦は緊張してよく覚えていないけど、最後は相手をコーナーに詰めて膝蹴りでKOした。膝蹴りなんてこの時は練習したことなかったのに・・。そんなこんなで僕の選手生活が始まった。

 

キックボクシング練習開始

もう早朝は肌寒いくらいになってきた。それでも日中は夏日近くまで気温が上がる日も多いけど・・・。もう10月も終わるっていうのに、今年は本当に暑い日ばかりだ。

    眩しいくらいのお日様

 

  空手の練習と違ってキックボクシングの練習は分刻みで行う。3分動いて1分休憩。その繰り返し・・・。準備運動ー縄跳びーシャドウーサンドバックーミット打ちースパーリングー縄跳びーストレッチ。こんな感じの練習を毎回行い、だいたい2時間くらいの練習かな。ジムの中は常にストーブが焚いてありかなりの室温なので汗がイヤと言うほど出てくる。最初は30分も動くことができなかったけど2~3か月もするとだいぶ動けるようになってきた。ここのジムは有名な選手が大勢いて、最初にジムに入った時にはTVで見たことのある顔が大勢いて緊張した。何をして良いのかもわからず、先輩方の邪魔にならないように隅っこでまねごとをしていた。そんな日々を過ごすうちにどうしても真似をしたい先輩が現れた。長江国政。TVでもよく見ていたし、超一流の選手。最初は隅のほうで練習を見ているだけだったけど、そのうち、練習終了後のシャワー上がりを待ってタオルを渡したり、ストレッチの手伝いを買って出たりしているうちに一言二言声をかけてもらえるようになってきた。それでも、練習を見てくれることなんてあり得るはずもなく、教えてくれることもなかったけど、それでもしつこいくらいに付きまとた。今思うと、ストーカーだよね・・。そのうち、サンドバックを叩いてると一言、・・しろ!なんて教えてくれて、あとはほったらかし・・・帰り際にあれはよかったゾ!なんてたまに褒めてもらえるようになってきた。所属ジムは違ったけど、長江さんからはいろいろな事を教えていただき私の先生だった。その後も本当に可愛がってもらった。キックボクシングではただ一人の先生。その後、いろいろな場面で巡り合う方々がいるけど、教えを請いたいと思った方々に巡り合えたことは私の人生の財産だ。長江さん・・またどこかでお会いしたいと思います。

 

キックボクシングとの出会い

ようやく雨が上がって秋空が見えてきた。数日前の新聞の社説に載っていた記事で、81才のオジイさんが奥さんに包丁研ぎを頼まれたのだけど、前より切れなくなった!と、言われて一念発起!YouTubeを見ながら繰り返し練習して奥さんが焼いた食パンがたわみもせずにに切れた時の気持ちよさのこの上ないことを語っていた。そう、包丁が研ぎ上がり食材がスパッ!と切れた時の爽快感はこの上ないですよ。

   愛用の包丁と天然砥石

 

 通っていた道場をやめたのは大学2年になる前だったと思う。しばらく何もせずにボ~としていたが、ふと近くにキックボクシングのジムがあることを思い出し覗いてみた。それまでは、TVで試合を見たことがある程度で特に興味もなかったが、なんとなく体を動かしたかったのだろう。ちょうどその時、たまたまジムに知っている人が居合わせたのを機に練習を始めることになった。空手をやっていたときは手による顔面攻撃は禁止となっていたが、たとえ攻撃されてもこうして防御できる・・云々と指導されており当時は鵜呑みにしていた。が、ジムに通って初日にスパーリングを行った時に、空手時代の能書きは何の役にも立たないことを思い知らされた。今まであれほど顔を殴られたことはない!ほとんど顔の原型をなしていなかったもの。まして、スパーリングの相手はその知り合いの人でほとんど素人でしたから・・。この時、中途半端な事、思い込み、口先だけを信用することの怖さをイヤと言うほど思い知らされた。以来、自分が実際に経験し、身をもって納得するまで物事は信用できないと思うようになった。これは生涯変わらないだろう。それから、毎日ジム通いが始まった。ちなみに階級はライト級62.23㎏、135ポンド。それまでの体重は70㎏超だったので減量は大変だった。11㎏くらい減量したこともあった。身長が170㎝弱なのでフェザー級位が良いのだけど、とてもそこまでは落とせず、減量がきついからと言ってウェルター級にするには身長が低すぎ結局ライト級におさまった。しかし、この選択がのちにタイ国ナンバーワンの選手と試合ができることになるとは・・・。



いったん終わった武道修業

ようやく秋の気配が感じられるようになってきた。とは言っても、まだ猛暑の日がやってくるみたい。もう九月も終わろうとしてるのに。しかし、秋と言えば読書。最近読んでる本は、白石一文著⌈神秘⌋。白石さんの本を読むのは初めてだけど、親子二代の直木賞作家で年齢も僕と同い年。この本の内容もなんとなく理解できるような~。

 

    白石一文著⌈神秘⌋

 

すし屋への出入りはなくなったけど、この修業中に学んだ包丁研ぎが僕の趣味の一つになった。もっと言うと、天然砥石による刃物研ぎだ。包丁はもちろん彫刻刀や鉋、小刀等、刃物全般を天然砥石で研ぐことにハマってしまい、集めた刃物や砥石はきっとその辺の職人さんよりも多いと思う。自遊人となった今は心置きなく研いでいる。砥石と刃物の話は後にして先に進もう。

     集めた天然砥石の一部

 

  さて、すし屋をやめてからは一層武道にのめり込んでいった。高校時代も校内に同好会を作って活動したけど、大学でも同好会を作った。僕の通った大学には極真会館の空手部があり部室に呼び出されたこともあった。同級生が面白がって後に付いてきて入部させられそうになり半べそ状態でいたのを解放させたりもしたっけ。その他の思い出は、毎年夏に行ってた神津島合宿。ホントに海がきれいで、満天の星空がきれいだった。天の川を見たのはこの時が初めて。ただ難点は船酔い。行き帰りの船は地獄でした。朝から晩まで練習して、帰るころには声がガラガラになってた。民宿でいくらご飯を食べても3~4㎏くらいは体重が減ってたもんだ。この空手中心の生活も大学に入って一年が過ぎた頃にサヨナラした。原因は指導していた先生の女性問題・・・。教え子と問題を起こしちゃダメでしょう!何だかんだがあって、サヨナラしました。その時に、血判付きのサヨナラ文と黒帯を返したけど、帯だけは戻された。よくよく考えればこの黒帯は自分で購入したものだから、当然と言えば当然だね✍️(◔◡◔)。その後、僕の教えていた子供たちの親御さんから、続けて教えてもらいたいと言われてしばらく指導していたけど、そのうち会は解散してしまい僕の武道修業はここでいったん休止してしまった。

              道着