すし屋修業の終わり

暑い暑いと言ってた毎日だけどここ数日の朝は秋を感じる。蝉の声に変わり虫の声が聞こえてきた。明け方の雲もなんとなく秋雲になってきたようでうれしくなる。

      朝焼けの空に秋雲が・・・

 

   いつの間にかすし屋修業も順調に進んでいきカウンターたってお客さんの相手をするまでになった。すし屋のオヤジ曰く、寿司を握るだけなら一週間もあれば十分!との事。大変なのは、ネタを見る目と仕込みだ!!その辺はまだまだ教えてもらえないけど、一応は握ってお客さんに出すまでになっていた。当時の亀有は飲み屋が多く、夜遅くなるとお姉さんとオジサンが連れ立ってよく来たな。アフターってやつなんでしょう・・。お姉さんは、アワビやイクラ、ウニなんて高いものばかり食べてた。握ってる僕を見て、アラ!板さん若いのね~なんてよくからかわれた。そりゃまだ高校生だものね。大人の世界を見てるみたいで楽しかったです。学校が終わると武道の練習に行くかすし屋で仕事をしてるかどちらかの毎日。しかもすし屋にいるときは夜中の二時、三時は当たり前、そりゃ授業中は寝てるよね・・。そんな事だから学校の成績はミルミル落ちていき、もともとすし屋に行くことに反対だった父親から怒鳴られ、しかもすし屋のオヤジからは武道とすし屋とどっちをやるんだと言われてしまった。すし屋のオヤジは本格的に教えてくれようとしていたんだ。何年かしたら別の店に修業に出してゆくゆくは店を持たせてやるから、なんてよく言ってくれてたもの。でも、僕は強くなりたかったんだよ。今になって考えるとすし屋のオヤジになることも面白かっただろうと思う。次の機会?来たらきっと寿司職人を選ぶでしょう。そんなわけですし屋修業は高校三年の夏前に終わったのでした。それでも、店が忙しいときは手伝ってくれ!って言われてよく手伝いに行ったけど、その時には新しい若い子が入っていた。まぁ、兄弟子ってところかな>_< さて、すし屋になることはあきらめたけど、武道家として生活するには程遠い。取り合えず、進学でもするかと言うことで勉強を始めたけど、何しろ今まで受験勉強などしてこなかったし、頭もよくないし・・・当然のように浪人生活が始まるのでした。

寿司屋修業

台風が過ぎてまた猛暑の日々に戻った。ホントに地球は温暖化なんだ。子供の頃の夏は気温が30度を超えるなんてめったになかったモンだけど・・・。初めてタイ国に行ったとき、その暑さに驚いたけど今じゃタイ人が日本の暑さに驚いてる。先週、高校のクラスメートとランチ会があった(6月にクラス会やったばかりだけど!)。久しぶりに上野に行ったけど外国人が多かった。アメ横で歩いているのは異国の人たちばかり・・皆日本の暑さにビックリしてるんだろう(⊙_⊙;)

    上野も暑かった。前を歩くは・・クラスメイトたち・・

 

   武道の訓練に明け暮れていた高校生活だけど、もう一つ熱中していたことがある。僕の家はパン屋をやっていたけど、その隣はすし屋でショッチュウ店に入ってカウンターの隅に座りオヤジさんの仕事を眺めてた。特に何ってわけじゃないけどタダジッとカウンターの中で動いているオヤジさんを眺めてた。職人の仕事が好きだったんだな。その時はそんな事はまるで思っていなかったけど。ある日オヤジさんが、よっチャン(子供の時、そう呼ばれてた)、そんなに気になるなら中に入って手伝ってよ!その一言でまた新しい修行?が始まった。でも、父親は気に入らなかったみたい。父親は山形の田舎から東京に出てきて小さな商社に入りズ~とサラリーマンをしてたから商売は好きではなかったんだろうけど、母親は山形でそば屋をやってたから何とも言わなかった。結局、授業が終わると空手の練習があるとき以外はすし屋の小僧として朝の三時、四時頃まで店にいて、その後少し寝てから学校に通っていた。すし屋に行ってすぐに教えてもらったのが卵焼き。いきなり厚焼き玉子を四本焼くように言われて焼いたら・・形になったのは二本だけであとは見る影もなく・・それはお土産だと言われて持って帰った。今ではありえないだろうな。何も教えられずに、実際の仕事を任されて失敗してもその理由は一言しか言われない。そして、また失敗して一言教えられて・・・その繰り返し。でも、そのおかげで今でも厚焼き玉子はしっかり焼けます(^人^)その後も、シャリ切りから巻物、握り、仕込みとドンドン教えてもらえた。もちろん、俗に言うしたずみ仕事、洗い物や出前配達、電話番等もやりましたけど、オヤジさん、早く仕事が出来るように教えて、自分はお客さんと飲みたかったんだって・・・お酒好きでしたから。そのおかげで数か月後にはカウンターでお客さん相手に寿司を握ってたものね。最初は常連さんに、新しい子なんだけど握らせてくれるかな!って断り入れて、お客さんの相手をさせてくれるんだけど。お客さんも快く、新人だね!なんて言って構ってくれて・・いろいろ勉強させてもらった時代だった。今思うと実仕事を教えてくれた先輩方はホントにありがたい方々ばかりで、教えてくれることが自分の自慢話や聞きかじりの精神論だった方々は皆印象に残っていない。こう言う先輩のなんと多かったことか。それは、その後の仕事でも武道修業でも同じで厳しさはそういう所に有るのかもしれない。

 

猛暑続きの毎日。最近は日中に出歩く気にもなれず早朝散歩で外出は終わってる。今朝も日課の新川沿いを歩いていると足元にカニの姿が・・・🦀こんな所にカニが居るんだ~。

    新川沿いにいたカニを発見!

 

 

   学校が終わると自転車に飛び乗りすぐに稽古に向かう日々。と言っても稽古は週に3日しかなくあとは一人稽古の毎日が続いてた。帯も白から緑、茶、そして念願の黒帯となり組手も面白くなってきた。その頃、映画⌈燃えよドラゴン⌋が大ヒットし、入門者も爆発的に増えて一時は50名程になっていた。色んな人が入ってきたけど、今でも忘れられない人は、ブルースリーに傾倒してたんだろうな・・組手を始めるとブルースリーになりきり映画の中の動きそのもので向かってくるんだもの。毎回床に這いつくばって組手を終えるんだけど・・・また彼と稽古したいな~。そして、前時代的だけど道場破りみたいな者も何人も来て相手した。他流派の空手、中国拳法、キックボクシング・・今考えるとこちらのルールで相まみえるんだもの勝った、負けたもないもんだよね。しかし、その時は(私たちのやってるものが世界一強いんだ!!)って、教えられて本気でその気になっていたんだから・・高校生くらいの怖いもの知らずってホントに怖いもんです。それでも、当時の稽古で一つ感謝していることがあって。それは自分自身に自信が持てるように指導してくれたことです。それまでの僕はまるで自分に自信がなく、学校でもその他大勢の中で隅っこに居るのが精いっぱいだったけど、稽古を始めてからは信じられないくらい自信を持って行動するように変わったと思います。でも、道場では指導員となり、道場破りの相手をし、先生と呼ばれていつの間にか慢心に変わっていたのかもしれない。後々ひどい目に合うから・・。それにしても武道とはすばらしいものです。単に相手に勝った負けたではなく生涯に渡って自分自身を磨いていく。常に自分の心を制御していく。自分自身を見つめなおして精進する。そういった事を人として当たり前にできるようにしていくことを教えてくれたのが武道でした。

 

 

稽古のはじまり

先日行われたSバンタム級タイトルマッチ、スティーブン・フルトンVS井上尚弥の試合は見ごたえがあった。井上選手の序盤のスタイルは今までのものとはまるで違って、左のジャブはフリッカー気味に見えたけどよく決まってて距離をつかんだみたい。あとは自分のペースで試合をコントロールして最後、絵にかいたようなフィニッシュでした。僕も一度でいいからあんな試合してみたかった・・・。

 

  初めての先生が居なくなってから一人空手着を着て走ったり、空突きをしたり、電柱(その頃は木の電柱でした)を叩いたりして勝手な一人稽古に明け暮れて日々を過ごしていたけど、高校へ進学して二年生になった頃、自転車での通学途中で生徒募集の広告を見つけた。なんでも、元極真会館の人が新たに流派を作って教えているとか・・しかも月謝が月千円・・・これは通うしかない!と言うことで早速稽古をしている小学校の体育館に顔を出した。ここで教えていたのは確か空手と言わず⌈闘道⌋と言っていた。顔へのパンチ、肘うち、膝蹴り以外は直接当て合い投げ技ありの今でいう総合格闘技だった。それでも元極真会館でやってた人が先生だというのが僕には魅力的に感じた。稽古には年配の方から小学生、女子と常時15名位いた。当初は組手でさんざん蹴られ、パンチをもらい、投げられて足を引きずりながら帰る日々だったけど何か楽しかった。ここには大学二年まで在籍した。いろいろあって破門?同然でやめたけど、僕にとっては大きな出会いだった。

思い出すと面白い経験をいろいろしたよ。この辺のことは次回書いていこう。

空手の始まり

猛暑続きの毎日。今年の夏ホントに暑い🔆今日は朝から薔薇の消毒散布&水やりをすませ、その後は部屋でノンビリ読書。寅さんこと渥美清さんは俳句もやってたんだ。俳号は⌈風天⌋、男はつらいよ!の寅さんだ!!

  車寅次郎ことフーテンの寅さん

 

   中学生で出会った⌈極真空手⌋には、とうとう一度も通うことはなかった。取り合えず購入した空手着を着て家の周辺を走るのが僕の空手修業の出発点で、あとは買ってきた本を見ながら独学で練習の日々を送っていた。本は確か、神道自然流・・????だったような気がする・・。ある日、僕の家がやってた店(自営でパン屋をやってた)にお客さんできたお兄いさんが、空手をやっていることを知った。頼み込んで教えてもらえることになったけど、場所は近くの公園。仕事から帰ってくると二人で公園で待ち合わせて教えてもらった。僕の家の前はお風呂屋で、お兄さんは毎日通ってくるんだけど、その時はいつも鉄下駄をはいてくる。今あるのかな・・?鉄製の下駄!片方が2㎏あるんだけど、歩くたびに⌈ガラン~ガラン~⌋て音がするんですよね。僕もすぐに買っていつもはいてたけど、きっと近所迷惑だったろうな。そんな修業?が1年くらい続いたころお兄さんは田舎に帰ってしまい、僕はまた一人になり高校生までズット一人稽古をすることになった。この頃はまだ一人で突きや蹴りを(エイーヤ~!)って出していたくらいだから特に先のことまで考えると言うこともなく、言ってみれば遊びだったんですよね。ただ強くなりたい!そう考えていただけ。でもこんな稽古じゃ強くなれるわけはないですよね。それでも、その時はきっと楽しかったんだろうな。よく覚えてないけど・・。そして、高校生になり少しづつ面白い世界に入っていきます・・・。

中学生時代、衝撃の出会い!

連日気温は猛暑日を超えてる!まだ梅雨明け宣言は出ていないのに・・。

近年の夏の暑さは東南アジアのようだ。昔々に暮らしたことのあるタイ国より暑いんじゃないかな・・

  

     今日も暑い一日の予感!

 

僕が中学生の頃もこんなに暑い夏だったかな~。

 突然‟ユリちゃん“が居なくなって寂しいくなったけど、ある日ふと見た

少年マガジンに今まで見たことのない写真が載ってるのを目にした。

それは、柔道着?を着た人が凍り付いた滝の中でパンチ?を出してたり、

走ってくる車に飛び蹴りしたり、スイカを指先で割ったり、瓦や板を

パンチや蹴りで割ったり・・・それは衝撃の写真だった。

説明文を読んでみると、それは⌈空手⌋と言うもので、一撃必殺で相手を倒せるということだった。

 きっとその時の僕の頭の中は興奮状態だったんだろうな。今まで見たことのある柔道や剣道とはまるで違うもの。素手で瓦や板を簡単に割ってしまい、蹴りで相手をたやすく倒してしまう・・・一目でこの⌈空手⌋に取りつかれてしまった。

その後この空手は、今では有名な極真会館が主催し大山倍達先生がそのトップにいることを知ったけど、本部道場に通うには当時で月謝が7000円、その他に本部道場がある池袋までの電車賃が、中学生の僕には捻出することは出来ず諦めるしかなかった。

           空手バカ一代全巻

 

  でも、空手をあきらめることは出来ず、最初に行動したことは近くのスポーツ店で空手着を買うこと??・・なんで最初の行動がそれだったのかは今となっては思い出せません・・・(´・ω・`)?

  その後、僕の人生はドンドン、どんどん武道と言うものに魅了されていきました。

今思い出すと“極真空手‟とこの時出会うことがなかったら僕はまるで違う人生を送ってきただろうし、今の僕はまるで違う僕になっていただろうな。

・・・でも、結局僕はその後一度も極真会館の門を叩くことはなかったんだよね!

 

 

中学生時代に起きた大きな出来事   その1

梅雨明けも近いか⁉・・・夏の早朝の日の出を見ているとチョット涼しい感じが南国を思わせる。好きだな~。


亀有中学校に通い始めてどの位たっただろう。幼馴染の⌈ユリちゃん⌋が突然死んじゃった。そう!突然! ユリちゃんとは小学生の時からよく遊んでた。でも、何して遊んでたのか、よく思い出せない。二人で銭湯にもよく入って遊んでた。今思うとちょっと恥ずかしいな・・。お通夜の前に一人でユリちゃんにサヨナラを言いに行った。お母さんが出てきてくれて、泣きながらお棺を開けてくれて、真っ白な顔を見て帰ってきた。不思議と怖いと言う思いは起こらなかった。それからどの位たっただろう。ある時ユリちゃんが夢に出てきて・・それからズ~と僕の近くにいてくれる。そう感じるんだよね。オカルトでも思い過ごしでもなく、実感できるんです。

  今の僕のライフワークの一つは、⌈真理の探究⌋、⌈死後の世界の探究⌋です。別に何かの宗教にハマってるわけでもないし、オカルトにハマってるわけでもなく、誰にも等しくやってくる⌈死⌋と言うものが何なのか。死んでしまった後には何があるのか?興味があるのです。避けることができないのであれば、事前に調べて置いたほうがその時に慌てないものね。

  先日も田坂広志著⌈死は存在しない⌋という、量子科学から見た死という物の存在を書いた本を読んでみた。今の医学界、科学界でも死という物がどういうものなのか研究者が出てきたみたいだ。この辺のことは、またユックリと書いていきます。

  さて、もう一つの出来事・・・これはその後の僕という人間の基礎を作り上げた出会いです。中学二年生の時、一冊の漫画⌈少年マガジン⌋に載った記事を見たことに始まります。